山口百恵「最後の頁」

◆「秋桜」B面のさだまさしさん作品、これも名曲!

さだまさしさんの歌を歌ってみたい!と百恵ちゃんが思い、約1年待って「秋桜」が出来上がりました。

その「秋桜」はシングルレコードのA面です。発売するにはB面も必要。そこで、もう1曲さだまさしさんが百恵ちゃんに提供したのが「最後の頁」です。「頁」と書いて「ページ」ですね。

アルバム『花ざかり』B面5曲目にも「最後の頁」は収録されています。

「最後の頁」
(1977年10月1日発売)
歌:山口百恵
作詞:さだまさし
作曲:さだまさし
編曲:佐藤準

◆「僕」を歌う百恵ちゃんにワープ現象?

「最後の頁」、、、初めにタイトルからどんな曲か想像してみるのも面白いですね。

「僕」という男性の目線で描かれた世界を、山口百恵が歌っています。

不思議なことに実際聞いてみると「僕」は「だれか透明な語り手」みたいに感じられてくる。そしてそのだれかによって描き出されている「君」という女性こそが百恵ちゃんの化身のようにありありと浮かび上がってくるんです。(私の聴き方ですけど)

歌い手山口百恵=「語り手・僕」は背後に退き、詩に登場する「ちゃんとお別れがいえる」かわいらしくて健気な女性の方にこそ「百恵ちゃん」を感じてしまう。え?そっちにいるの?って謎のワープが起きる。

さだまさしさんが歌ったら、「僕」はそのままさださん。「君」は詩のイメージから生まれる想像の女性。ノーマルな立ち位置になると思いますが。

◆「僕」のまなざしはクリアであたたかい

背後に退く「僕」と言いましたが、全編「僕」の言葉、「僕」の世界です。そこでは、未練とか悲嘆とか、別れにありがちな湿っぽい感情はひたすら抑制され、一定の距離をおいて注がれるその視線は簡潔でクリアである(これがいい!)。そして「君」に対しては温かく、深い愛情が感じられます。

じゃあどうして別れちゃうの?、、、そんな疑問が聴き手の心に湧いてくる。説明はない(これがいい!)。

抑制された描写は、聴き手の自由な想像を許してくれる。私たちも感情にややブレーキをかけて、おだやかな気分で聴いている。ところがふとした想像から、止めていたはずの思いが規定値以上になってしまう(抑制下だからこそ起きやすいアクシデント)。すると涙がこらえきれなくなる。これも計算済みなのだと思うが、あくまで歌はそ知らぬふりをしている。

◆「サヨナラ」が〇〇〇?~観念美への仕掛け

メロディーもテンポも淡々と落ち着いています。あらためて聴いてみると「詩」と「メロディー」がとてもしっくりと溶け合っている。アレンジも品格があり、終盤に向けてさりげなく(あくまでさりげなく)グランドフィナーレ的な広がりを作っているように感じました。(閉店時刻にお店が流す「蛍の光」に代わってこの曲使えそう)

「最後の頁」のその紙幅が尽きる最後の最後。静かな別れに、心をほわっと焼くような仕掛けがありました。こんな歌詞です。

君が「サヨナラ」とマッチの軸で テーブルに書いたらくがき

僕がはじから火をともせば ほら「サヨナラ」が燃えてきれいだ

「最後の頁」
歌:山口百恵、作詞:さだまさし、作曲:さだまさし、編曲:佐藤準

テーブルに、マッチ棒で「サヨナラ」と彼女が書く。文字にして並べたのでしょう。12本使えばできそうです。

それを見た彼は、彼女のふとした遊び心、というか最後にもう一度「さよなら」をなぞっていく作業、にちゃんと応じるかのように、軸の先端にある燃える部分(頭薬?)に火をつけていった。そうすると「サヨナラ」の文字が束の間燃える。

二人の心の呼応がとてもステキです。これまでずっと一緒に歩いてきた、お互いのことをすごく分かり合ってきた。その道のりがすーっと見えてくるよう。

でも!私が一番言いたいのはマッチ棒の文字や、それに火をともす斬新さなんかじゃ全然ない。いっそ「僕」が火をともしたことは現実じゃなくていい。

「サヨナラが燃えてきれいだ」

これ!一番最後にくるこれです!

燃えてきれいなのはマッチの火ではなくて、さよなら、だと私は考えます。
「さよなら」は美である、燃えるような美なんだっていう観念。

そう「さよなら」の観念をポーンと放って、それが燃えている。なんてきれいなんだろう。

これで終わる。凄い!と思います。

「サヨナラが燃えてきれいだ」をいかに美しく歌うか。この一点に向けて舞台が作られたのだと私は思っていて、このフレーズを偏愛してしまってる。

こういう提示、他の歌にあるでしょうか(サヨナラ以外ならあるかも)。

「最後の頁」はそう言い切ったという点で類のない、鮮やかすぎる最高の別れの解釈をした作品じゃないかなと思います(私の解釈)。

◆「最後の頁」わたしの思い出

人生振り返ってみると、別れの場面ってきっとだれにでもありますよね。

私の人生の岐路にも、実際に「最後の頁」を口ずさんで、この歌に助けられて、なんとか別れの場面を通過した、そんな思い出があります。

2番のこの歌詞

不思議なもんだね二人

もう何年か過ぎたら

全く違うレールをきっと

走っているのだろうね

「最後の頁」
歌:山口百恵、作詞:さだまさし、作曲:さだまさし、編曲:佐藤準

別れが近づいてくるという予感の中一週間くらい毎日のように「最後の頁」を口ずさんでいました。「全く違うレールを走っている」そんな日は来るのだろうか?とても信じられない。でも戸惑いながらも、そういう日は来るだろうって見えてきた。

この「サヨナラ」のどこを探しても破綻がないと言ったらいいのか、レールが分かたれると知っているし、自分から選んだ道でさえあるのだから。もう仕方がない。

それから10年以上過ぎたある時、「最後の頁」を聴いてみました。「全く違うレール」をしっかり走っている「今の自分」が歌をたどっていくと、いつかこの歌詞のとおりになるんだろうなと思った「あの時の私」が詩の中から現れて、今の私とうなずきあったような、そんな不思議な感覚がありました。軽やかにほほえんで。それがまたかなしさでもあるのですが。

◆まとめ~「最後の頁」を聴くときのポイント

  • 名曲「秋桜」と共に愛聴されつづけている裏名曲「最後の頁」
  • 「僕」を歌ったはずの山口百恵は一体どこへ?「君」のキャラが素敵すぎる
  • クリアで抑制された描写こそ感動を誘う
  • 超推奨フレーズ、「サヨナラが燃えてきれいだ」これに尽きる!

(家にあった黒いマッチ棒で書いてみました↓)

◆おまけ~「男性歌詞」の百恵楽曲を探してみた

百恵ちゃんが「男性」の言葉で歌っている歌、どんなのがあるか調べてみました。

  • 「最後の頁」
  • 「悲しきドラマー・マン」
  • 「ひとふさの葡萄」

あと女性、男性どちらが歌っても別に不自然じゃないと思える曲もありました。

  • 「サンタマリアの熱い風」
  • 「いい日旅立ち」

(探し漏れているのもあるかもしれませんが)

「俺」が主語になっている「悲しきドラマーマン」には、話の中で「女」が出てくるものの、直接の登場はしません。

「ひとふさの葡萄」は「僕」が主人公ですが「十五夜少女」として娘が登場します。この曲も印象としては「僕」が語り手で、「少女」に百恵ちゃんの化身を感じてしまいます。とはいえ「僕」にも百恵ちゃんの温かみが、、、。どっちの役を演じるかという枠を超えて百恵遍在!「百恵ワールド」が創り出されているように感じます。

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⇒ 山口百恵「秋桜」

⇒ 山口百恵「一恵」

⇒ 山口百恵「夢のあとさき」1(ラジオ番組)

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